かにかくに 祗園は恋し 寝るときも 枕の下を 水のながるる
祗園白川のほとりに立つこの歌碑は生涯祗園をこよなく愛した歌人であり、劇作家、吉井勇の歌。吉井勇は祗園という街のみやびな空気までもをきめ細かく歌った作品を生涯数多く残しました。
祗園白川は、白川の流れが祗園のこのあたりを流れるところから呼ばれるもので、本来、白川は比叡山の山ふところから流れ出し一旦 琵琶湖疎水と合流し岡崎あたりで再び疎水から分かれ南に下り、知恩院の門前で大きく曲がり祗園に流れ込み、やがて鴨川に流れ落ちる全長9キロたらずの川です。
今、祗園白川のあたりは南側には建物が残っていますが、北側は石畳のひろい道になっていますが
太平洋戦争末期に強制疎開で北側は取りこわされたためなのです。
吉井勇のかにかくにの歌が生まれた大正年間、その頃の祗園白川の両側には、お茶屋さんが並び一帯は祗園きってのにぎやかな街だったのです。
祗園白川のほとりに立つ、寝姿かと思わせるふしぎなかたちの石の歌碑は友人の谷崎潤一郎はじめ交流のあった人たちの手でたてられたものですが、この場所こそ、吉井勇がこよなく愛し、谷崎潤一郎や画家の横山大観、フジタなどとの交流をあたためた茶屋「大友」のあったところなのです。
吉井勇はこの地で多くの仲間 友人たちとの交流を通して祗園という街を見つめつづけたのです。
大正4年刊行の「祗園歌集」は竹久夢二装幀で、歌集としては異例の大ヒットとなり、祗園の興隆に大きな役割を果たしたのでした。
そのため吉井勇は祗園とは関係が深く歌碑の建てられた11月8日は、かにかくに祭として、祗園のきれいどころが故人の好きだった白菊の花を献花して故人をしのぶお祭りが行われるのです。
かにかくには、何はともあれの意もあるとか。
かにかくに京の紅葉はやっとスタートしたようです。