そのお店が創業1461年という京の伝統的な和菓子屋さんから分家して、「和菓子屋がつくった飴」で知られる豆平糖を売り出したのは江戸末期、今から200年以上も前という歴史は、右から豆平糖と彫られたその看板からも伺えます。
今も創業当時のままにすべて手づくり。
上白砂糖とザラメ、そして秘伝の密だけを時間をかけて煮詰めていくと飴はやがて上品で透明なコハク色に変わってきます。
創業以来変わらぬ飴づくりはその蜜の煮詰めかげんによって甘さが決まるため、今も煮詰め時は緊張、唯一の道具・木のヘラ片手いひたすら飴の煮詰まり具合を見守る日々だとか。
そしてあざやかなコハク色に煮上がった飴に香ばしく炒りあげた丹波の黒豆を入れてねり、今もゴザの上でころがして飴を細く伸ばすと、細い飴の中に微妙な間隔で黒豆が透けて見える豆平糖ができあがります。
その昔、お店のある祇園のあたりまで八坂神社の境内がひろがっており、その境内で人気のあったカンカン糖と呼ばれていた黒い飴の中に豆の入ったものをヒントに、もっと上品に洗練された飴をめざして開発された豆平糖は以来、いつの時代にも人気があり祇園の舞子さんや南座に出演する役者さんなどもその香ばしい味のファンは多いのです。
この豆平糖、箱の中には12・3センチほどの細い飴がきれいに並んで入っています。どうして長いままですかときいても、豆平糖は昔からこの長いままで売っておりますという返事でした。
おいしい味が守りつがれてきたことに理由は必要ないのかもと、納得して飴を口に含むとこうばしい黒豆の香りがやさしい甘さと共に口にひろがるのでした。