公園の日だまりにすくっと立つケヤキの巨木はすっかり葉を落とした枝を晴れ上がった冬空に思いっきり伸ばしています。
その枝の美しさといえば、緑でおおわれた初夏から夏のたくましく堂々とした巨木の美しさとは違って、太い一本の幹から枝分かれ枝分かれして、網の目のように空間を埋めつくすばかりに伸びた枝の繊細さなのです。
俳句の季語に裸木というのがあります。冬木というのもあります。
大空へ冬木は梢を広げたり
裸木というのはすっかり葉を落とした木の姿です。枯木と違うのは今はすっかり葉を落としてはいるけど、それは来るべき春にそなえてチカラを貯えている木という意味だとか。
考えてみれば、私たちの暮らしというのはいつも木に見守られているのです。
その町の、その地域の、その公園のと、どこにでもその場所を示すシンボルツリーが必ずあるはずです。
例えば農村では春になると「田打桜」とか「苗代桜」と呼ばれる桜が花をつける時期を合図に田仕事がスタートしました。その桜が花をつけるようになるともう天候も安定したことを知らせてくれる存在でしたが、今では天気予報がそれにとってかわってしまいました。しかし桜は今も律儀に春になると花をつけています。
モズのかん高い鳴き声が冬木の公園にひびきます。
冬木は今静かに眠りについているのです。
ふゆが きたとて 木は裸
春に なるまで 木は裸
ちらちら 雪が ふってきて
はなを きものに きるけれど
それが 消えると また裸
山村暮鳥
いよいよ今年もあと1週間
迎春準備で大掃除もいよいよピークです。