「これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関」
百人一首の坊主めくりの別格スター蝉丸は平安時代の歌人であり、盲目の琵琶の名手として逢坂の関近くに庵を結んで生涯を琵琶ひとすじで過ごしました。
逢坂山は、古くから山城と近江の国境であり、都と東国を結ぶ交通の要衝として関が置かれ、京から東国への出口でした。
蝉丸はこの逢坂の関にくりひろげられる人々の再会や、別れのドラマを、「も」を4つも歌の中に読み込むことで独特のリズムを持った名首に仕上げたのでした。
又、琵琶法師と呼ばれた蝉丸のかき鳴らす琵琶の調べは時には激しく、時には哀しく、聞く人の心をとらえてはなさないすばらしいものでした。この時空をこえた蝉丸の琵琶の調べは後に、今昔物語や平家物語にも語りつがれ、後には世阿弥によって能に、近松門左衛門によって浄瑠璃にと様々な物語を生んだのです。
そして百人一首にえらばれた蝉丸の名句を生んだ逢坂の関は他にも、清少納言の「夜をこめて鳥の空音はかるとも よに逢坂の関は許さじ」三条右大臣の「名にしおはば 逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな」と三首もえらばれるという当時の人々にとっては特別の関所だったのです。
蝉丸は死後、逢坂の関の鎮守、道中の安全を守る道祖神であった神社に合祀され、神社は蝉丸神社と呼ばれるようになり、以来音曲 芸能の神さまとして今も人々の信仰を集めているのです。