鳥羽街道は、平安京造営に際し、資材運搬のために都の羅生門からまっすぐ南に向かって淀川までひらかれた「鳥羽の作り道」がそのルーツ。
京の街を流れる鴨川は、宇治川、木津川をあわせ桂川と合流して淀川と名前を変え、大阪湾へと注ぎます。
その合流点は古くから草津の湊と呼ばれ、水陸交通の拠点として大に栄えてきました。
大阪湾から荷物を積んで淀川をさかのぼってきた大型船は、淀川の水深が浅くなる草津の湊までで、ここで荷物は降ろされ、小型船に積み替えられるか、陸路で都まで運ばれたのでした。
鳥羽街道はこの陸路の運搬のためにひらかれた道。一般に街道というとまちとまちを結ぶような何百キロものイメージがありますが、鳥羽街道はなんと、たった9キロの街道なのです。
しかし、1,000年をこえる歴史を持つ鳥羽街道は、平安京造営のための作り道にはじまって時代時代によって役割を変えながらしばしば歴史の舞台となってきました。
江戸時代幕府によって、草津の湊に公設の魚市場が開かれ瀬戸内のとれとれの魚は夜を徹して三十石船で草津の湊につきます。
そして魚は「走り」と呼ばれる人達によって鳥羽街道を都に運ばれました。
今 季節に先がけで出廻る野菜や魚を「走り」と呼ぶのは、この走りの歴史から生まれたコトバなのです。
そして鳥羽街道が歴史の中で必ず登場するのが鳥羽伏見の戦い。
1863年慶応4年、旧幕府軍と薩摩藩、長州藩を中心とした新政府軍がこの鳥羽街道で激突。一帯は戦場となりました。戦いは旧幕府軍の敗退となり、江戸城の無血開城へとつながったのです。
1,000年をこえて日本の歴史の舞台でありつづけた鳥羽街道。五月の青空の下へ創業1675年、京都で最も古い造り酒屋としての歴史を持つ「月の桂」の白壁の酒蔵がつらなるあたりのただづまいに今も住時の面影がしのばれるのです。