伊賀上野は安土桃山時代 築城の名手、藤堂高虎によって築城された伊賀上野城の城下町として、街並みが整備されましたが、城は完成間近かに大嵐によって天守閣がくずれるなどの災難に見舞われるなどアクシデントがありました。
高さ30mにも及ぶ、美しい石垣を持つ城は1935年に復元され戦国時代の城の美しいたたずまいが再現され、今では日本100名城のひとつにえらばれています。
伊賀上野城の城下町として生まれた街は、小京都と呼ばれる美しい姿を残し、合併によって伊賀市となった今も市の中心としての存在を保っているのです。
伊賀上野は近江、京、奈良に近く、こうした町と伊勢を結ぶ中間に位置するところから、初瀬街道 大和街道など複数の街道の交わる交通の要地として人の往来でにぎわってきました。
今、伊賀上野は忍者の里として良く知られていますが、ここは俳聖 松尾芭蕉のふるさとでもあるのです。
1644年にこの地で生まれた芭蕉は、早くから当地で流行していた俳句に興味を持ち、29才の時、俳諧師の道をめざし、江戸へ旅立ったのでした。
今も街のあちこちに生家をはじめ、いくつものゆかりの建物があります。そのひとつが俳聖殿です。
芭蕉の生誕300年の1940年に建設されたものでそのユニークなカタチで知られています。
一番上の丸屋根は旅笠、その下の「俳聖殿」の額は顔、八角形の屋根のひさしは箕と衣装、それを支える柱は翁の杖をあらわしています。生涯を旅する俳人としての芭蕉の姿を建築にした俳聖殿は今では国重要文化財になっています。
野ざらし紀行、笈の小文、奥の細道など数々の作品を残し俳諧を文学にまで昇華した芭蕉翁は、今も地元では「芭蕉さん」と親しまれ、うやまれているのです。
さまざまな事 おもい出す 桜哉
この句は奥の細道に旅立つ前に伊賀上野に招かれた時のものです。