“つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて…”
『徒然草(つれづれぐさ)』は『方丈記(ほうじょうき)』『枕草子(まくらのそうし)』と並んで日本三大随筆にあげられています。
作者の吉田兼好は、鎌倉時代から南北朝時代をする歌人であり随筆家。
━吉田兼好について
若い頃は官人として仕えましたが、やがて官を辞し、30歳頃に出家しました。
仏教、儒教、道教にも詳しく、博学で和歌においては、南北朝の四天王と呼ばれていました。
50歳前後に『徒然草』を執筆。しかし『徒然草』や世に出たのは吉田兼好の死から100年後だったようです。
━『徒然草』の中のお灸
全243段からなる『徒然草』は、兼好が日常生活の中で見聞きしたこと、気になったことなどを筆のおもむくままに記しています。
その第148段には、
“四十以後の人、身に灸を加へて、三里を焼かざれば、上気の事あり。必ず灸すべし。”
「40過ぎの人は、カラダにお灸をすえた時に、三里に灸をしておかないとのぼせることがある。必ず灸をすべきである」と記しています。
この文章から、お灸が当時日常的に使われていたことが伺えます。
━鎌倉時代とは
兼好の生きた鎌倉時代は、新仏教の時代でした。
法然(ほうねん)、親鸞(しんらん)、栄西(えいさい)、道元(どうげん)、日蓮(にちれん)、一遍(いっぺん)がそれぞれの宗派をひらいたのです。
そして、茶道を日本に伝えたとされる栄西をはじめ、それぞれが中国から仏教の教えとともに湯液(とうえき)(今の漢方薬)、灸法などを日本に伝えました。
━お灸が広まる
僧医(そうい) 梶原性全(かじわらしょうぜん)による灸法を記した医学書『万安方(まんあんぽう)』や『頓医抄(とんいしょう)』が著されるなど、僧が仏の教えをひろく伝えるとともに灸治療を行く先々で行なったこともあり、庶民の間にお灸が広まった時代でもあったのです。
『徒然草』は、当時の風習や人々の考え方なども知ることができる資料として知られており、またお灸の歴史を語る上でも、鎌倉時代のお灸事情が読み取れる貴重な書でもあるのです。
兼好法師像(法印生明印)
西尾 実 校注 , 安良岡 康作 校注 「新訂 徒然草」、岩波文庫、1928年12月
西尾 実 校注 , 安良岡 康作 校注 「新訂 徒然草」、岩波文庫、1928年12月
兼好法師像 江戸時代 神奈川県立金沢文庫
法然上人像:慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)
親鸞聖人像:奈良国立博物館 収蔵品データベース