「東海道中膝栗毛」が出版されたり、広重の「東海道五十三次」が発表されたのは江戸も後期ですが、江戸時代の中期頃には平和な時代となり庶民の旅ブームがやってきたのです。
東海道を旅する人は大名行列などをのぞいて、庶民の旅だけで年間約200万人。平均すると一日に5、6千人もの人が東海道を往き来していたのです。
東京日本橋を起点として五十三の宿を経て126里、約492キロを毎日約8里30キロを長旅の着替えを旅費もすべて身につけて歩いて13〜15日かけて旅をしたそうです。途中雨があったりで日数も今の旅のように分刻みの旅のスケジュールのように正確には行くわけはなく、それだけに旅の終点にたどりついた達成感は大変なものだったようで、京のゴール三条大橋の近くには旅籠や土産物店が軒をつらねて旅人を歓迎していたのです。
その中の一軒が京の通りを唄い込んだ江戸時代のわらべ唄にも「一条戻り橋、二条薬屋、三条みすや針、四条芝居小屋・・・」と唯一お店の名前が唄い込まれているほど知られていたのがみすや針なのです。
今、私たちの生活で針と糸を使う機会はめっきりなくなりましたが、かつて日本の衣生活はすべて針と糸で縫うことでなりたっていたわけで、針と糸は超必需品。なかでも針は縫いやすさが品質を左右するために、針の穴までなめらかに仕上げられ糸切れや、糸のほつれが少なく又縫う時の針のしなり具合もまことによく、針といえばみすや針とその評判が高く、京みやげとして軽くかさばらないこともあって全国に知られるようになったのです。
今も京町屋の奥の間のようなお店には、知る人ぞ知る京みやげなどと最近よく雑誌に紹介されたりで訪れる人がたえません。