お灸を知る・使うせんねん灸 moxaブログ

2017.10.06

ブログ

西ノ水道

suidou
湖の国 近江には水にかかわる物語があちこちに伝えられています。
西野水道もそのひとつ湖北に今もその姿をとどめています。苔におおわれた入口に立つと、トンネルの中はひんやりとした冷気につつまれています。

秀吉の天下人への第一歩といわれた賤ヶ岳の戦いの舞台、賤ヶ岳につらなる西野山のふもとの西野集落は、三方を山に囲まれ残りの一方は余呉川に面しているため古くからたびたび洪水に見舞われ、大雨ともなるとしばしば水没しました。
洪水から集落を守る唯一の手だては、集落の西の山にトンネルを掘って水を琵琶湖に流す方法が考えられていましたが、とうてい実現できることではありませんでした。
江戸時代、日本はたびたびの飢饉に見舞われました。
なかでも天保の飢饉は大旱魃が数年つづく最大の飢饉のひとつに数えられるほどでした。

しかし、この西野集落は湿田が多かったことが幸いし大豊作となって村は大いにうるおったのです。
この時、西野の充満寺の住職 恵荘師は村人にはかり かねてから話にあった集落を洪水から守るために洪水の時の水を琵琶湖に流すトンネルを西山に掘る工事を実行に移すべく彦根藩にも相談の上、1840年この大工事はスタートしました。
しかし小さくても山のひとつにトンネルを開けるのははてしない難工事。しかもノミだけという手作業で、最初は3人の石工が1年9ヶ月かけてやっと37m掘り進んで巨大な岩盤にあたりやむなく反対側から掘り進みましたが再び巨大な岩にギブアップ。再び新しい石工を集め工事を再開、岩をさけついに6年目にして水道は完成したのです。
高さ1.5メートル、幅1.2メートル、長さ240メートルの水道はノミだけで掘り進んだアトが随所に残り、当時の苦労が目にうかぶようです。
こうして集落を洪水から守った水道は今 三代目、幅5メートルもある巨大なトンネルがすぐそばに出来、その役目をになっています。
役目を終えた初代の水道は今、県の指定文化財になっていますが、近年パワースポットとして、訪れる人が増えているそうです。

ページの最初に戻る